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辞書・事典・図鑑について
 ある知人は出版社に勤めていた。数年前に定年退職を迎えている。その知人が、定年間近の頃に、近頃は辞書や図鑑の類の販売が不振だと言っていた。電子メディアの普及がそうさせたと言うのである。分かるような気がする。近頃は、電子辞書なるものが大いに普及してしまったからである。我が家の事例でも、家族6人暮らしであるが、それぞれ個別に電子辞書を持っている。昔は、一般家庭では、辞書は一家に一冊あれば十分だったのだが、現代社会では個人持ちへと変化してしまったようなのだ。かく言う私自身も複数の電子辞書を所持している次第である。しかも、この電子辞書なる文明の利器たるやコンパクトな大きさでありながら、100冊前後程度の各種の辞書が収められているのである。しかもカラー写真入りで、音声までも再生してくれるのであるから、願ったり、適ったりである。それにしても、日常的に100冊程度の辞書を携帯できる等とは、一昔前では夢のような話である。そんな時代が到来するとは少しも予想が出来なかったのではかろうか?
 話題が急変して恐縮であるが、そして、不確かな記憶からで恐縮であるが、確か亀井勝一郎氏の言と記憶しているのだが、こんな言葉を残している。
「読書には、精読とか乱読という言葉があるが、積ん読という読書の在り方がある。つまり、手許にあれば、いつでも必要に応じて直ぐに読むことも調べることも可能である。」
というのである。
 その言たるや蓋し名言と頷いてしまったものだから、我が家の書斎には、平素まるで開かないような書物までもが堂々と書棚に鎮座している結果となってしまった。書斎という空間は物理的なキャパシティに限度がある。そのキャパシティ以上に各種の書籍を購入してしまったものだから、現状では収拾がつかない様相を呈している次第である。
 それはそれとして、辞書なる書物というものは、座右に置いて、必要な時に手にするのが一般的であろう。ところが、今も記憶に残っているある人物の姿がそれを見事に打ち消してくれている。
まだ、現役で勤務していた頃に、電車通勤をしていたのだが、その車内での光景である。誰もが電車通勤の場合にはほぼ同じ時間帯の同じ電車の同じ位置に乗車するのではなかろうか?私もいつもそうだった。そして件の人物も同様だった。40代と見受けられる女性だった。ある乗換駅から乗車して、私よりも早く下車するのだった。ほぼ毎日のように椅子に座している私の前に立ち、毎日国語辞典を読んでいるのだった。片手を吊革に、片手で辞書を持ち、来る日も、来る日も、同じ辞書を読んでいるのだった。私には、どうにもそれが不思議な光景に思えてならなかった。辞書を頭から最後まで読み通すという読書の在り方が、私にはどうにも納得が行かなかったのだった。失礼ながら、その女性の服装や持ち物を観察してみたところ、どうやら小学校の先生のようだった。それにしても彼女は、何故毎日国語辞書を読み通していたのだろうか?辞書を読まなければならない必然性があったのだろうか?それとも楽しみで読んでいたのだろうか?いつも疑問に思って同じ車内で過ごしていたものだった。まるで知己を得ていない女性でもあり、何故毎日辞書を読んでいるのかを尋ねて見ることは出来なった。やはり、楽しみで読んでいたのだろう。
 何故、辞書を頭から読みこなすということをしないのかと考えた時に、それは言葉のシーケンス、つまり言葉の配列に脈絡がないからではなかろうかと思うのだ。自分の求めている言葉とはまるで関係のない部分には、辞書の場合にはあまり目を通さないのが私の場合には一般的だったからだと思える。
 だが、等しく辞書でも、後を引いて次々と読みたくなる辞書も世の中にはたくさんある。
 その第一の例としては白川静先生のライフワークともいうべき
『字通』・『字統』・『字訓』(いずれも平凡社刊)を挙げたい。どうしてそのような漢字が生まれてきたのか、その時代背景と文化史とが掘り下げられているのだ。そして、その漢字を我が国ではどのように理解して受容したのか、その結果、時代も文化も異なる我が国で、どのように変化してきたかが述べられているのである。この3冊の辞書は、とにかく読んでいて飽きることを知らない。
 同様に、藤堂明保先生の
『学研 漢和大辞典』並びに加藤常賢・山田勝美著『角川 字源辞典』も同様である。個々の漢字がどのようにして作られたか、何故我が国ではそのような読み方があるのかが、どちらも象形文字から説明されている。
 白川先生の場合と、藤堂先生や加藤・山田先生の場合とでは、漢字の生まれ方についての文化史的な解釈が分かれているように思えるが、上掲三冊を読み比べるとより一層面白くなってくる。
 次に、有り難いおまけ付きの辞書4冊と図鑑1冊を挙げたい。
 その1は、冨山房から出されている大槻文彦著
『新訂 大言海』である。本書の初版は昭和7年(1932)であるが、手許にあるのは昭和31年(1956)に新訂されたものである。本書の有り難い点は、現代日本語が旧仮名遣いではどのように表記されたかが分かる点である。そればかりではない。個々の日本語の語源が示されており、それぞれの使用例が我が国の古典から出典を挙げて示されていることである。毎回、開く度に随分たくさんの知識を得た辞書である。ただし、見出しも旧仮名遣いであり、加えて説明文は片仮名書きであるので、今時の方々には不向きなのではなかろうかと思える。
その2は、
『講談社 カラー版 日本語大辞典』である。本書の有り難い点は、タイトルに「カラー版」と銘打ってあるが、カラー写真や図版が随所に掲載されている点である。つまり、図鑑としても利用が可能な点である。タイトルは日本語大辞典であるが、百科事典的な要素を備えた辞書であるともいえるのだ。そればかりではなく、和英の対訳が掲載されているのである。これも有り難いおまけといえる。我が家には、哀しいかな和英辞典の大辞典がないだけに次に挙げる書か本書に頼ることとなっている。
その3は、学習研究社から出された
『新世紀ビジュアル大辞典』である。表紙には’The Millenium Encyclopedie Lexicon'と併記してある。つまり、21世紀を目前にして学習研究社が新しい辞書を企画したといえる書である。先ずは、今時の書らしく、本書は横書きなのである。近頃では、縦書きの書物は日常的には新聞と雑誌、そして国語辞典程度でしか接することがない。専ら横書きの文書が多いのである。むしろ、従来の国語辞典の場合、外来語の見出しの場合、カタカナで縦書きし、原語をアルファベットで表記してあるのだが、その部分だけ横書きで縦に配列する表記法が取られており、その方が十分違和感があるといえる。本書のように全文が横書きならばそうした違和感がない。ところで、本種、タイトルにビジュアルの語が示しているように、写真や図版がカラー版で掲載されている。つまり、本書は図鑑としても利用可能と言うことになる。前掲書同様に日本語の見出しに対する英訳の単語も掲載されている。和英辞典としても利用できるということになる。
 その4は、岩波書店から出されている
『広辞苑(第6版)』である。こちらは、正確には、電子辞書に納められているものである。机上に置いて、即座に利用できる、つまり、椅子から立ち上がり、書棚から重い辞書を取り出す必要が無いだけに、毎度お世話になっている辞書である。本書も前述2冊同様にカラー版の写真や図版が用いられている。そればかりではなく、イヤフォンを通して音声も再生してくれるのだ。これは書物では出来ない機能と言えよう。
 最後に、北隆館から出されている牧野富太郎著
『牧野 新日本植物図鑑』を挙げたい。昭和36年に初版されたものである。本書が刊行されて以後、学問の研究も進み、植物分類も大きく様変わりしている。特に、近年は、DNA分析による分類が行われた結果、新たな科や属が登場している。さらに、これまでとは違う科や属に分類上移動した植物も多い。それらに伴い学名も大きく変化していることも見逃せない。つまり、本書をそっくり現在の分類体系に当てはめることは出来なくなってきているのである。だが、私は、ほとんど毎日のように本書を開いている。それは二つの理由からである。先ずは、本書には、植物の和名の由来や語源について、牧野博士なりの解釈が述べられているからである。毎日開くもう一つの理由は、巻末に77頁にわたって学名の解説が掲載されているのである。それも辞書形式になっているから利用しやすいのである。学名に関しては、他に(株)ぎょうせいから出されている豊国秀夫編『復刻・拡大版 植物学ラテン語辞典』並びに研究社から出されている田中秀央編『羅和辞典』も併用している。この3冊を比較してみると、次のようなことが言える。先ずは、研究社版『羅和辞典』の場合、ギリシャ神話やローマ神話に登場する固有名詞に強いという点である。植物の学名にはそれらに起因しているものも多いので、とても有り難い点である。『植物学ラテン語辞典』の場合、内容は、『牧野植物図鑑』と解説も、語彙もほとんど大差が無いと言える。ただ、有り難い点は「羅和辞典」としてばかりではなく、本書の半分は「和羅辞典」としても利用できるようになっている点である。ただし、『牧野 新日本植物図鑑』との大きな違いが1点ある。それは固有名詞が取り上げられていないと言うことである。一方で、牧野図鑑の場合、何よりも有り難いのは、学名に登場する人名についての解説がある点である。植物の学名は概してギリシャ語を語源としており、それをラテン語化した表記になっているものがほとんどである。そこで、ラテン語の辞書を引いて辿り着けない場合には、概して「人名」であるか「地名」であると言える。牧野図鑑では、その点についても触れているので、学名に登場する人名がいつの時代の何某という人物かまで辿り着ける。地名も同様である。ただし、こんな欠点もある、オシロイバナの学名はMirabilis jarapaである。この学名の種小名に登場するjarapaがラテン語からは辿り着けなかった。そこで、例によって牧野図鑑の巻末にお世話になった。出ていた!そこには次のように記載されていた。Jarapa:ヤラッパ(メキシコの町名から)と記載されていた。そこで、GKZ植物事典にはそのまま転記させていただいた。すると、ある御仁から貴重なご指摘を頂戴してしまった。その御仁は、海外での赴任が多く、メキシコにも滞在した経験をお持ちで、「この町名はヤラッパではなくハラパです。」とご指摘くださったのだ。考えてみれば、メキシコはスペイン語である。日本はスペイン語ではJapon(ハポン)である。牧野植物図鑑の場合、当然日本の植物を対象としているので、外来の園芸植物名が登場しない点は残念である。だが、巻末のおまけは毎日利用させていただいている。
 上に学名について触れたが、学名の発音の仕方、或いは読み方については次の2冊を挙げたい。以前オーストラリアに滞在したときに購入した図鑑である。Stirling Macoboy著『What flower is that?』『What tree is that?』の2冊である。この2冊は、学名順に植物が掲載されている。したがって、学名を知らない人の場合には、巻末にある英名のIndexから掲載頁を探ることとなる。両書共に最初に学名(属名)、次にその発音の仕方、っして、一般的な英語での植物名、そして科名(ラテン語)で書かれている。そこまでが見出しで、その後に、解説記事とカラー写真が添えられている。内容も欧米ばかりではなく、ほとんど世界中の植物が取り上げられている。学名の読みを知るには有り難い図鑑である。だが、この点に関しても、今や、ネット上にたくさんのサイトがあり、そこには学名の発音の在り方が記載されていることが多いので、やがて、こうした書も淘汰された行くのではなかろうかと危ぶまれる。 
 次に、これは間違いなく読み物としての事典を3冊挙げたい。
 その1は第一法規出版社から刊行された書で、編集代表:渡部昇一
『ことばコンセプト事典』である。本書は日本語で表現される言葉、たとえば「愛」であるとか、「運命」であるとか言った言葉の概念について、語ってくれる書である。日本語の見出し語に対しては英・独・仏・羅・希のそれぞれの対訳が示されている。東洋思想に関する見出し語に対しては、前述の5カ国語に加えて梵語での対訳も示されている。その見出し語に対しての簡単な定義が述べられている。この後から本文となるのだが、哲学、思想史、文学等の範疇からの事例が述べられており、関連の文献や映画・演劇、美術、音楽等の作品事例も示されている。一つの概念が、時代と共にどのように変化してきたか等について事細かに述べられていて、飽きの来ない書である。
 その2は、大修館書店から出された翻訳本である。ジャン=リュック・エニグ著
『[事典]果物と野菜の文化史ー文学とエロティシズム』である。本書も読み物としてはとても楽しい書である。個々の野菜や果物に対して、西洋社会ではどのようなイメージ(原書が仏語だからイマージュとなろうか)となっているかについて述べられている。つまり、上掲の『ことばコンセプト事典』と同様にどのようにして個々のイメージが定着するに至ったかについて、様々な西洋思想史や西洋文学の中から事例を引き出して説明してくれている。さらに、個々の果物や野菜がどのようなルートでいつ頃西洋社会に定着したかについても触れられており、その結果、果物や野菜が何故現在の名に至っているかについても述べられている。それにしても、本書には、引用した文献に登場する人名一覧が巻末に掲載されているのだが、驚くことに21頁にも及んでいるのである。大いに参考になる。その博識ぶりには思わず脱帽の境地である。
 その3は、東京堂出版から刊行されている内林政夫著
『たべもの語源辞典』である。先ずは、本書の著者は京都大学医学部薬学科卒業で薬学博士である。そして、武田薬品工業(株)の常務取締役でもあったという立派な経歴の持ち主である。だが、本書の内容は、医学や薬学とは随分かけ離れたような内容であり、どちらかと言えば比較言語学や言語変遷史、或いは比較社会学、文化史といった内容なのである。上述のジャン=リュック・エニグ著『[事典]果物と野菜の文化史ー文学とエロティシズム』と同様に,個々の食べ物が、いつ頃どのようなルートを経て今日に至っているかが述べられている。そして、それぞれの経由地ごとに名称が変遷し、現在の各国語ではどのような名称となっているかが述べられているのである。本書の大きな特徴は、その語源が何であったのか、同一の語源を有しても、各国に到着するまでのルートが異なることにより、現在の名称が異なる所以を説明してくれているのだ。たとえば、サクランボは英語ではcherryであるが、フランス語ではceriseであり、ドイツ語ではKirscheということになる。だが、その語源は同一であるという。その変遷のプロセスに興味関心のある方は、同書をお読みいただきたい。とにかく日常的に身近なたべものの語源が満載である。ただ、薬学博士がなぜこのような言語の変遷についての該博な知識を得たかという疑問が残る。
 上掲3冊の書以外にもまだまだたくさんあるが、これらの書は、私の場合、興味関心のある見出し語の頁から読んだのであり、その意味や概念を調べようという必然的な動機に駆られて読んだのではない。とにかく楽しいから読んだと言うことになるのである。
 
 昔、平凡社版の『世界大百科事典』を購入した。本書は我が国を代表する百科事典と言っても過言ではなかろうと思える書である。私が購入したのは1964年版であり、全26巻である。今にして思えば、この26巻というのは書斎での書棚のスペースをかなり占めることになる。それでも、それぞれの分野のオーソリティーとも言える執筆陣の説明に、本書があれば、様々な領域に関する十分な参考書になると思ったものだった。私の悪い癖で、随所にアンダーラインや書き込みがしてある。懐かしい書物群である。だが、その後、2006年にCD-ROM版が登場したので、それも購入したのだった。これは有り難かった。何しろ、スペース面ではたったのCD1枚分で良いからだった。だが、そればかりではない、百科事典の場合、見出し語の説明の後に、毎度関連項目が付記されている。その関連項目を読もうと思う場合には、一度立ち上がって、書棚から目的の巻を引き出してきて、目的の頁を開かなければならない。CD-ROMヴァージョンが登場する前は、一度机から離れることを少しも煩わしいと思うこともなく、それは必然的な行為と思って過ごして来たのだった。だが、パソコンでの使用の場合、少しも時間をかけることもなく、瞬時に関連項目へと飛ぶことが出来るのだ。そうなると、これまで利用してきた書物版の百科事典は見向きもしなくなってしまった。その上、我が家のそれは既に刊行してから半世紀も経ている。その間に様々な分野で学説も変わり、新たな理論も登場し、新たな発見もあったりと、知識の面では斬新さに欠けるという嫌いは否めない。今では、他の書物を収納するためのスペースを確保するするために、書斎の上のロフトに移動してしまってある。たとえば、個人の書斎ではなく、大学の図書館等での場合、現在では全34巻となっている百科事典を複数のセットを書棚に収納するとなると、スペース面だけでもかなりのスペースを確保する必要が生ずることになる。単にスペース面だけではなく、価格面でも、CD-ROM版の場合、書籍版に比較して1/3程度と廉価でもあるのも魅力である。
 だが、ネット社会の現代では、百科事典を購入するまでもなく、ネット上に様々な情報が夜空の星と同じ数程にも飛び交っているのだ。しかも、日本語ばかりではなく、好きな言語で読むことが可能である。この項の冒頭に登場した知人の言ではないが、益々書物が売れなくなっても不思議はないと思えるのだ。
 随分以前に、三修社から『12か国語辞典』という辞書が販売され、購入した。ただし、CD-ROM版だった。世界各国12か国語の辞書が全部で18冊収録されており、それらをクロス検索できる内容となっているのだった。購入してしばらくは、重宝して利用したが、今では、あまり利用することが無くなってしまった。その利用は、Googleの翻訳機能にある。上述書よりも遙かにたくさんの国々が翻訳の対象とされているのだ。ただし、厳密さに欠けるという嫌いは否めないが・・・。いずれにしても、パソコンのCDトレイに毎回CD-ROMを入れたり出したりする煩わしさがないだけにGoogleを頼ってしまうことになる。Googleの翻訳機能は、完璧ではないが、人々が利用するごとに少しずつ精度が高まると思われる。そうなると折角パソコン時代に対応した辞書として登場したこの『12か国語辞典』も利用頻度は低くなってしまうのではなかろうか。何よりも有り難いのはGoogleの場合には、無料で利用できるということだ。
 外国語の辞書について上では触れたが、GKZ植物事典を記述するにあたり、中国名は重要である。昔から、中国とは文物の交流は盛んに行われてきたらである。我が国には中国から渡来した植物も多く存在する。それらの中国名を知るには、何より参考になるのは中国科学院編纂の『中国高等植物図鑑』(中国科学出版社 全7巻)である。中国の国内に自生している植物はほとんど網羅されていると言えよう。この図鑑も、学名が記載されているので、それを頼りに探り当てることが出来る。だが、問題は簡体字で記述されている。簡体字とは、たとえば日本での漢字<飛>は<飞>となる。<機>の文字は<机>となる。この両者を併せて<飞机>と表記すると<飛行機>という意味になる。つまり、非常に簡略化されているだけではなく、意味も異なっていることになる。そこで、GKZ植物事典に記載するときに、この簡体字で表記しては、我が国の方々には、ご理解いただけない文字が多く登場することになるので、中国語辞典を開いて、本来の漢字、つまり日本人にも読める漢字へと変換しなければならないこととなる。私の場合は、次の3書を用いている。鐘ヶ江信光著『中国語辞典』(大学書林)、『プログレッシブ中国語辞典』(小学館)、倉石武四郎/折敷瀬興(編)『岩波日中辞典』(岩波書店)の3冊である。前2冊は、共に初・中級者向きの辞典と言える。岩波版日中辞典は外来語、我が国で片仮名表記されるような語を中国語ではどのように表記するかといったことを調べるには有り難い書である。ところで、中国本土は、上述の簡体字を用いて表記されるが、台湾では、等しく漢字を用いてもこれまた異なり、繁体字を用いて表記される。たとえば、我が国の「国体」を台湾では「國躰」と表記されることとなる。この台湾の漢字表記も、現代の日本人には馴染みがないので、GKZ植物事典に記載するときには、本来ならば、上に挙げた事例の「國躰」は「国体」と変換すべきかと思うのだが、物臭をしてそれをしていない。理由は簡単である。どちらのご家庭にも漢和辞典の一冊や二冊はあろうかと推測されるからである。余談になるが、中国や台湾に自生しない植物、つまり、中国の人々にしてみれば外来の植物に関してはどのように表記されるのかも興味ある事柄である。私の場合には、次のようにして探し出している。先ず、西洋の植物の場合には、香港のサイトが大いに有効である。アフリカや中南米の植物の場合には、台湾のサイトが有効である。ユーラシア大陸や北方系の植物の場合には中国のサイトが有効であると言うことである。
 まるで読めない辞書もある。ペルシャ文字やタイの文字で表記された図鑑や辞書である。ある年に、知人からタイの植物図鑑を頂戴したことがある。だが、哀しいかな、写真を見て何の植物かまでは見当がついても、まるで説明の部分が判読できない。これには大いに弱った。お陰で2度ほどタイまで出かけて、バンコク市内の大きな書店で英語とタイ語が併記されている図鑑を買い求めてきた。現在使用しているのは『Plants for landscape architecture in Thailand』である。本書は、タイ語と英語が併記されており、タイ語での植物名もアルファベットで記載されているので、徐々に慣れて来るに従ってタイ語も読めるようになってくる有り難い書である。   
 次に、図や写真で解説されている図鑑を3冊挙げたい。
 デビッドMacaulay著
『道具と機械の本:てこからコンピュータまで』(岩波書店)
 ダイヤグラムウグループ編
『楽器:歴史・形・奏法・構造』(マール社)
 Jean-Claude Corbeil & Ariane Archambaut(編)
『Word's Word』(同朋社)
 この3冊は、ほぼ似たような内容になっている。どんなに巧い表現で言葉にしても、その表現する側とその受け手の側とが同じイメージを脳裏に浮かべるとは言い切れないといえよう。それを巧く小説の形式で著した作品としては開高健著『裸の王様』ではなかろうか。そこで、誤解や間違いの無いようにするには、やはり写真や図版が最適と言うことになる。上掲3冊の書は、それを如実に示してくれている。特に楽器や機械などの場合、様々なパーツの組み合わせで出来ている。それらがどのような位置にどのような順序で組み合わさっているかを絵画で表現してくれているのだ。そして、それぞれの部位を英語ではどのように表記されるかを示してくれているのである。もちろん、日本語でどのように表記されるかも当然示してくれている。つまり、関連性のない言葉をアルファベットや五十音の配列に並べている辞書とは大いに異なり、関連する部位やパーツのそれぞれが絵と文字で示されていると言うことになる。この3冊を見ていて毎回思い出す人物がいる。オーストラリアの某牧場主である。オーストラリアの内陸部にお住まいで、お隣のお宅までは20㎞以上も離れている。広大な敷地で、一家4人がお住まいなのである。その牧場主のお宅にホームステイをしたことがある。彼は言っていた。こうして孤立して生活をしていると、必要なのは確かな知識と技術とであると。たとえば、日本で言えば救急車を呼ぶには電話で済むが、現地では無線だった。つまり電波で連絡するのだ。電波は牧畜には重要な天候の判断も必要になる。それも電波で受信するのだ。しかし、その無線の送受信に用いる機器が故障した場合には大変な事態を招いてしまう。そこで、その機器の仕組みを知り、故障時には自分で修理もしなくてはならない。牧場内に、大きな工場のような倉庫があった。そこには複数のトラクターを初めとした農業機械が収納されていた。そして、それらの機械の部品並びに工具が置かれていた。そればかりではなく、修理をする際のマニュアルが置いてあったのだ。それを見せていただいたが、上掲3冊の書の表現形式とほぼ同様であった。故障時には、そのマニュアルを見ながら、自分で修理をしなくてはならないのだとも言っていた。上掲3冊の中で前2書は原本はイギリスで発行され日本語版として国内で発行されたものである。最後の書はカナダで原本は発行されている。こうした図解方式は、我が国ではなく、欧米で発達した形式なのかも知れない。
 上には、絵画や写真をもとにして検索する図鑑を挙げたが、植物の場合に、重要なのは、花の色である。そこで、花の色から検索出来る図鑑をここでは3冊ほど挙げてみたい。
 
『色別800種山草図鑑』(栃の葉書房)
 George W. Scotter & Hälle Flygare著
『Wildflowers of the Canadian Rockies』
                          (Hurting Publishers)
 Wolfgang Lippert著
『Alpen blumen』(Gräfe und Unzer)
 この3冊の場合、共通しているのは、ポケットサイズであることと各頁の端部に色がついているという点である。つまり、山野草を目にしたときに、その場で花の色と同じ頁の部分から検索が出来ると言うものである。現在ネット上には色々な植物図鑑が掲載されているが、多くのサイトでは、上掲3書と同様に花色から検索出来るように工夫されている。私のGKZ植物事典ではそのような検索アイテムが挿入されていない。したがって、和名もしくは学名をご存じの方のみが目的の頁に辿り着くことが出来るということになる。今から、そうしたアイテムをH/P上に挿入しようと試みたところで、既に1万頁を越えているので、それらを逐一、色別に振り分ける作業はかなりの時間を要すると思うとやはり二の足を踏んでしまうことになるのである。
 随分昔に、アルビン・トフラーの著した近未来予告書である『第三の波』を読んだ。それが現在では近未来ではなく、現実社会となっている。彼の指摘した情報化社会は着実に進展してしまっている。こうした状況下で、今後、図鑑や辞書の類はいったいどのような方向に進むことを余儀なくされるのだろうか?やはり、デジタル化も禁じ得ない状況に及んでいるのではなかろうか。辞書や図鑑ばかりではなく、書物全般に言えることではなかろうか?
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 ツツジの季節が過ぎて、我が家ではバラの季節となった。ここ数日というものスーパーの日替わりサーヴィスのょうに寒暖の差が激しい日が交互に訪れている。厚着をしたり、薄着になったりと、少しも落ち着かない。そこで、安心して聴けるものをと考え、思案の末に取り出したのはアルトゥール・ルービンシュタインの演奏するショパンのワルツ集だった。彼の来日公演の後にレコードが発売された。デパートのレコード売り場に向かったところ、並んでいたのは若い女性ばかりだった。何だか場違いな列に並んでしまったような違和感を覚えながらレコードを購入したものだった。今回の音源はCD。
 H.25.05.23